釆女小書小波ノ伝
−改修上演第一夜の記−

土岐善麿


 「能に親しむ会」は、昭和50年9月26日夜「釆女」を上演、満堂の鑑賞に供した。ただし、これは今回、この伝承曲に対して喜多流として新しく改修を加えた最初の公表であったから、その点能の現代的処理に新しい一課題を提出したものと言えるわけで、ここにその経過の大略を記しておくこととする。
 当夜の番組には、特に「演者のことば」が印刷され、喜多実師が次のように今回の改修に関する事情と理由を率直に明らかにされた。

演者のことば
喜多実
「釆女」という能は、何かはっきりしないところがあるようです。帝の寵の衰えを嘆くあまり池に投じて死んだ事件を描くことを中心としながら、一面それに深入りすることを努めて避けたようなところがあり、前の植樹の場面はともかく、後は我が身の上を語るよりも、むしろ舞歌に興を昂めることに目標をおいたような点が、三番目色を出すために折角の題材を中途半端にした形跡が見られます。そのためか、持って廻った冗長さが一曲を時間的でない長さを感じさせているようです。観世流に「みなほの伝」という小書があるのも、それに対する一種の抵抗から出たものではにでしょうか。亡父が生前「長いよ、何とか土岐さんに相談して短くしろよ」と  申しておりましたが、土岐さんに対しても直接希望らしいことを言っていたそうです。私はそれを聞き流したわけではありませんが、亡父の真意がどこにあるのかはっきりしませんでしたし、私としては、あの長丁場の重苦しさも稽古には絶好という感じを持っており、元来好きな能でもあり、あれはあれなりに立派にやればきっと素晴らしい能になるという思いでした。ところが今度久し振りに出すことになって、さて稽古にかかってみますと、年齢のためもありましょうが、とてもあの冗漫なところにはついていけず、中途で気持ちが挫けそうになるのでした。去年は「野宮」も勤めてそれほどに疲れもしませんでしたが、これは時間的の問題ではないぞ、と考え始めましたので、やっと亡父の言ったことを真剣に考えるに至りました。そして恐らく亡父は「みなほの伝」を頭に置いて、そういうことを考えたに違いないと思い当たりましたので、土岐さんにその小書のことを説明しますと、土岐さんは「ああ、先生はその型をやってお見せになりましたよ。あれがなかなか良いんですよと仰って」と後シテの被ぎで出る形を真似されました。私は自分の想像が当たっていたことに満足し、しかし必ずしも観世の小書に関わることなく、自分の構想を語り、土岐さんの御意見を聞きました。省略する個所、補うべき文句などについて懇切な示唆を得ました。
  しかし今度の試みは、私として自信の持てるものではありません。省略の点は異論も少ないかも知れませんが、入水の型を挿入するところはさぞ批難を受けることと存じます。三番目を四番目に汚すといった矢も鋭く放たれることと覚悟しております。いろいろな批難も進んで受けたい気持ちでおり、重ねての試みを期待しております。御観覧下さる方々も、この試みに御参加の心でお願い致します。

 これを開演前に読み終えたものにとっては、このときの「能に親しむ会」がいかに意欲的な計画のもとに催されたかを了解し得たはずであるが、一方「釆女」が近年(あるいは恐らく40数年来)殆ど上演されたことがないだけに、初めて「元々こういうもの」として鑑賞された方も多かったと察せられる。そしてそのことは、いわば能動的と受動的との二つの印象に分かれたかと思われるが、それを合わせたところに「小波ノ伝」という小書が成立したと言ってもいい。
 「能に親しむ会」には、常例として私がいつも解説的な短い講演を試みることになっているが、この「釆女」については、今回の改修の部分をあらかじめ詳しく語ることをわざと避けておいた。それは、舞台における一曲の展開をそのまま受容するのに、あるいは、妨げになるかも知れないことを考慮したためである。それで次に、旧刊の謡本と対比しつつ、改作の部分を記しておく。


 ワキ(宝生弥一)の登場。その詞からサシコエの「頃は弥生の末つ方」以下、ワキ、ワキツレの道行もそのまま、「春日の里に着きにけり」でワキ座に着く。
 シテは、アシラヒ出のハヤシで登場。小面、唐織着流し、扇を右手に、木の葉を左手に持って常座に立ち、「照りもせず曇りも果てぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」(新古今集、大江千里)の一首を謡う。すなわち、原作では、シテの「宮路正しき春日野の・・・・」に始まる次第から「明くるも春の気色かな」まで、謡本では10行ほどの謡があるのを全部省いて、右一首の歌のあと、すぐワキとの問答になる。ただし、その間にシテが左手の木の葉を舞台に置いて植える型がないため、ワキの詞は「かやうに重ねて木を植え給ふ御風情、不審にこそ候へ」とされている。
 そこでシテは「木を植えて神の御心に叶ふいわれを語り参らせ候はん。そもそも当社と申すは」と語になるが、この語の部分も「程なくかやうの深山となる」までで切り、あとの「されば慈悲万行の日の影は」以下四句は省かれて、すぐ「蔭頼みおはしませ」の地謡になり、「唯かりそめに植うるとも」とここで持った木の葉を下に植える型となる。そして「あらかねのその始」の返しからシテの立廻りとなり、「浄土に春の劣らめや」のあと、ワキとの問答へ進み、「池の藻屑に乱れ浮くを、君も哀と思し召して」と続き、同音となって「池水の底に入りにけり」と中入になる。(これまでが30分であった)
 狂言は語り間。(これが13分)
 ワキ、ワキツレの待謡があって、一声のハヤシ、後シテの出となる。小面、緋大口、長絹の姿が、いかにも美しい。
 「あら有難の御弔やな」と常座に立って謡い、ワキが、「不思議やな池の汀に表れ給ふは、釆女と聞きつる人やらん」と迎える。このあと謡本は、シテの「耻かしながら古の」につづくが、この部分12行ほどは全部削除され、すぐ地謡の「げにや古に」の序となり、「葛城の王・・・・」のクセに移る。この辺の詞章は、成仏得脱のこと、竜女の変成男子など、仏教の理念を説く部分であるが、能としてはいささか煩わしい。また、葛城王に関する説話は陸奥における別の釆女のことであるが、これは当時自然に連想されたことであろうし、釆女の遊楽の舞、それを見せる段取りとしては相応しい。そして「遊楽快然たる釆女の衣ぞ妙なる」のあと、「取り分き忘れめや」からの3行ほどを省いて、常なら「月に鳴け」と謡うところを「吾妹子が寝くれた髪を」と改めたのは、舞を挟んで「猿沢の池の面」と続けるためと受け取れる。
 この序の舞は、喜多流で「遊女の舞」ということになっているが、「演者のことば」にある「入水の型」、この発案の演出によって、舞は2段のオロシでシホリのあと、シテはおもむろにシテ柱の方へ進み、そこで(後見によって)長絹を脱ぎ、双鬢を前に垂らしモギ胴姿となる。これは、亡霊として現れた後シテが生前の姿となったわけで、橋懸りへ進み、一ノ松のあたりで「入水の型」を見せる。「さぞ批難を受けることと存じます」と演者は述べているが、これは、夢幻から現実への新しい演出として、1曲の変化として、新作能的な一連の発案として承認されるものと信じる。序の舞からイロエとなるわけだが、笛(藤田大五郎)の響きも、珍しい印象的なものと聞こえた。
 序の舞のあと、シテの「月に鳴け、同じ雲居のほととぎす」から同音の「・・・・四海波静かなり」まで削除。すぐシテの「猿沢の池の面」となり、あと同音は謡本そのまま「又波の底に入りにけり」で終わる。
 全曲、およそ1時間20分であった。
 このあと「能に親しむ会」では、居残った有志が座談会的に批判や感想を語り合う慣例もあるが、当夜はそれを予定しなかったので、私は玄関に立ち、帰りゆく知り合いと挨拶を交わしたが、殆ど皆満足げに「良かった」とか「面白かった」とか色々言ってくれた。「釆女のよみがえりですね」と言ったのは誰であったか。いずれも、更に第2回の上演を期待するという表情であった。


 ところで、私は講演の中で次の2つの記録を回顧的な話題として読んだが、これもここに挙げておこう。
  =『坂元雪鳥能評全集』下巻から=
   (昭和2年4月1日)実氏は珍らしい「釆女」を出した。前後2時間を越えて立ち通しの能に、少しも品位を傷つけず、本三番目物の曲是を遂行したのは成功であった。下を見る型が3度あったが、皆目立って良い姿だったのを不思議に思った。
                    
  =喜多実著『演能手記』から=
   (昭和8年5月24日)稽古能、「釆女」を舞う。2度目である。今日は肩から肘へかけて殊更に構えようとすることを避けてみる。運びは、そのために十分滑らかに行く。力が上半身にのみ上る。これが僕の欠点に相違ない。イロエの小書でやってみたが、これは実に無意味なものである。今度発行の稽古順には、父の意志によって削除したが、成程保存しておくがものはない小書である。この1番でヘトヘトになる。
雪鳥翁の能評のうちに、これが「前後2時間を越え」たことを記してあるが、改修によって40分程が短縮されたことも記録的であり、また、喜多氏が2度目の稽古能にイロエの小書をやって、これが無意味なことを悟ったというのも、40余年後に改修を断行したことと関連があろう。「演者のことば」にも「持って廻った冗長さ」とあるが、確かに、例えば「実盛」の作書について、まことに適切な指示を伝えた世阿弥が、この「釆女」の作者とされていることも正確な証拠がなく、しかも否定の資料もない以上、現在は疑問としておく他はないが、『申楽談儀』に「後人追記」として、永正11年戌の年10月28日の能のうち「サルサハ」というのがあり、また「五音」の条に「飛火」と題して「抑当社と申すは・・・・」という「釆女」の「語」の文句の出ていること、これとの関係も今後の研究に待つ他はない。
それにしても、「釆女」のうちに、「吾妹子が寝くれた髪を猿沢の池の玉藻と見るゾ悲しき」という歌がそのままシテと地謡と重複して謡われることは、詞章として不用意というか、むしろ拙いばかりでなく、『大和物語』の記載とも違った引用になっている。すなわち、この一首は、拾遺集に人麿のものとしてあり、この曲の作者が典拠とした『大和物語』も同様で、「帝」の歌は「猿沢の池もつらしな吾妹子がたまもかづかば水ぞひまなし」である。ただし、この歌は古今六帖に「よみ人しらず」とし、万葉集巻十六の「耳梨の池し恨めし吾妹子が来つつかずかば水はもれなむ」の類歌と認められている。
従って、今回の改修を機会に、シテの「然れば天の帝の御歌にも」を「然れば柿ノ本の朝臣人麿」とし、同音の中のうたを先に記した「猿沢の・・・・」に代えることにしたらと思う。そうすれば、この同音の「叡慮にかけし御情」という文句にもよく合致することになり、あとの「入水の型」も一層活きてくるのではあるまいか。

まず、これで、六平太翁生前の意向に随って、そのご遺志を果たす作業に参加したことになったと思っている。